ディズニーがハイになっていた頃

BKANCM FANTASIA (ANI - 1940) ANIMATED CREDIT DISNEY FNT 003FOH
BKANCM FANTASIA (ANI – 1940) ANIMATED CREDIT DISNEY FNT 003FOH

   

かつてアニメーション界の大御所たちの映画は、過激で実験的なアートへとその方向性を変えた。そうした作品は子供たちの理解の範囲を超えていたものの彼らを惹きつけた、とレオナルド・マルティンは言う。

  


By レオナルド・マルティン
2015年11月12日

   

未来派、シュールレアリズム、抽象芸術。

これらのジャンルのアーティストは、ウォルト・ディズニーを語る上で一般的ではないが、実はそれにふさわしい。ウォルト・ディズニーを「当たり障りのない家族向けエンターテイメントの提供人」と決めつける人がいるが、そういう人は彼の映画をしっかりと見ていない。特に、1940年代の作品『ファンタジア』は、ディズニーをただの商業大衆主義としてしか見ていない批判層を黙らせるような作品だった。この映画は、1940年11月13日の公開から75年後の今でも、ハリウッド映画の中で最も驚きを呼んだ映画の一つとして残っている。

 「この映画の制作者たちは”どんぎまり”だったに違いない」と若年層に思われていた

1969年に『ファンタジア』がサイケなポスターと共に再上映されると、当時のカウンターカルチャー(対抗文化)により “先端映画” と一目を置かれた。この時の劇場公開でファンタジアを知った若年層は「この映画の製作者たちは”どんぎまり”だったに違いない」と言い切った。くるみ割り人形のシーンで踊るキノコに命を吹き込んだアニメーターのアート・バビットは、「Ex-LaxとFeen-A-Mintの中毒だった」とコメントしている。これらは市販の便秘解消薬とチューイングガムのブランドである。つまりこの衝撃的な映画は、幻覚剤ではなくハードワークによって作られたのだ。 

   

    

オープニング部分のシーケンスでは、オーケストラの音が抽象的に視覚化されている。これのためにディズニーは、当時最も優秀なグラフィックアーティストの一人、オスカー・フィッシンガーを雇った。彼はナチスから「退廃」した者というレッテルを貼られた人物で、広く実験的なアニメーション短編集のシリーズを作った。個人主義が強かったフィッシンガーは、最終的にはディズニーの環境に順応できなかったが、バッハの音楽に徹底的なまでの抽象的ヴィジュアルを組み合わせた『トッカータとフーガ』のシーケンスでは彼のアイデアが多く使われ、アメリカの主流客層がそれまでに見たことがない映像となった。

   

『ファンタジア』トッカータとフーガ(1940年)

   

1940年、当時のクラシック音楽の純粋主義者たちはディズニーのアイデアに難色を示し、ベートーヴェンの”田園交響曲”やムソルグスキーの”禿山の一夜”などの名曲に、物語風のイラストが付けられたことに腹を立てた。しかし、ストラヴィンスキーの”春の祭典”にのせ描かれた地球上の生命の始まりや恐竜たちの驚きのクライマックス、そしてポンキエッリの”時の踊り”のカバやワニやダチョウのバレエダンスなど、そのイマジネーションと制作力はとどまる所を知らない。

  

『ファンタジア』は、インテリぶった音楽で埋め尽くされた映画を中程度の教養がある観客が見に来ることを見込んだ単なるギャンブルではなく、立体的音響-すなわち全く新しいもの-として掲示されるべき作品だとウォルト・ディズニーは主張した。

  

実際は、彼のファンタサウンド*音響システムは一部の映画館でしか導入されなかったが、ディズニーが映画技術の先導者であるという事実を示したことに変わりはない。

*ファンタサウンドとは、”RCAやベル研究所の協力を得て当時最先端の技術が注がれたものです。録音は8チャンネルで行い、ミックスダウンして光学式3チャンネルを記録した音声専用フィルムを複数のスピーカーで再生するという途方もないもので、正に驚異的と言わざるを得ません。(これ昭和17年の話ですよ)” -出典 Quadraphonic Surround System

   

  

大胆な色

 

ウォルト・ディズニーにとって、『ファンタジア』が初の前衛的領域への進出ではなかった。

「チャップリンは映画における”失楽園”という新時代を作り、ディズニーは”復楽園”を作った」と言ったセルゲイ・エイゼンシュテインからサルバドール・ダリまで、1930年代最初の大成功を味わっていたウォルト・ディズニーは皆から応援を受けていた。評論家も観客も彼を称賛した。ミッキー・マウスは世界的なアイコンとなり、ハッピーゴーラッキーのキャラクターを使った製品が市場に溢れた。

   

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ウォルト・ディズニーとソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインは友人で、セルゲイは自身の映画『イワン雷帝・第2部』でディズニースタイルの配色を採用している(クレジット:Walt Disney Productions)

   

成功がウォルト・ディズニーの展望を変えることは決してなかった。彼は常に前よりもっと良いアニメーションを作りたいと努力した。

1932年、ハリウッドのどのプロデューサーも新しいテクニカラープロセスを使わなかった。コストが掛かってしまう上に一銭も余分に儲けを出さないからだ。しかしウォルト・ディズニーは賭けに出ようとしていた。シリ-・シンフォニーのアニメーション『花と木』はすでに白黒で制作に入っていたが、彼は堪えきれぬほどの大きなチャンスを見い出し、ワクワクする新しいことをせずにはいられなくなった。様々な色で描かれた『花と木』はあまりにも印象的だったため、映画芸術科学アカデミーはディズニーの功績を讃えるためだけに最優秀短編アニメーション賞を設けることとなった。

  

『花と木』(1932年)

   

ウォルト・ディズニーと彼のチームは、現実に忠実な色使いが重要ではないことを心得ていた。彼らはアニメーションを作っているのであって実写を再現しているのではない。

『3匹の子豚』で狼がレンガの家を吹き倒そうとするシーンでは狼の顔が青くなり、キスシーンではどんなキャラクターでも顔が真っ赤になる。『空飛ぶネズミ』では一日の様子が描かれており、太陽が降り注ぐ朝から始まり、物話が緊迫してくるにつれ少しずつ暗くなっていく。終わりには夜が来て、小さな主人公は家の戸口の暖かい灯りの下で帰りを待つお母さんのもとへ駆けていく。今でもおそらく変わりないカラーパレットの心理的用法は、こうした感情の動きをアニメーションで表現するのにとても役立った。

  

こんにちの続編主義のスタジオとは違い、ウォルト・ディズニーはくり返すことに興味がなかった。

『白雪姫と七人のこびと』(1937年)

   

ディズニースタジオでは常にアーティストにスキルアップが求められた。当時、ウォルト・ディズニー初の長編映像制作の準備もあり、アートクラスやセミナーが開かれていた。業界の専門家らは、アニメーション作品をおとなしく座って見る人などいないと考えていた。しかし『白雪姫と七人のこびと』がその予想を覆し、アニメーション業界の新境地を開拓した。一度聴いたら忘れない歌が盛りだくさんの楽しげな映画にも情緒的なシーンがあった。

  

クライマックスで、おこりんぼのグランピーが棺に横たわる白雪姫を見て崩れ落ちるシーンに映画ファンが涙した。その様子を見たディズニーのアニメーター達は、自分達が何か本当にとてつもないことをやってのけたのだと実感した。

  

もう一度言うが、ウォルト・ディズニーは従来の考えを否定した。観客は、ドーピーやドクや他の愛らしいキャラクターをもっと見たいと騒いだが、こんにちの続編主義のスタジオとは違い、ウォルト・ディズニーはくり返すことに興味がなかった。その代りに彼は、赤字がほぼ確実の向こう見ずな大望とも言うべきプロジェクトに取り掛かった。

    

ダンボとダリ

『ファンタジア』が生まれたキッカケは、偉大な指揮者レオポルド・ストコフスキーとの夕食会だった。同氏の提案は、ミッキー・マウスがクラシック音楽の曲に命を吹き込む設定で、共作として同氏とフィラデルフィア・オーケストラの演奏を収録をすることだった。曲はデュースの”魔法使いの弟子”。このアイデアは徐々に大きくなり、当初 “ザ・コンサート・フィーチャー”と呼ばれていたこのプロジェクトは更に手の込んだものとなった。

  

『ファンタジア』では様々な反響があったため1940年時点では儲けを出せなかったが、音楽とイメージを結びつけるアイデアは10年間ずっとウォルト・ディズニーの中に残り続けた。

彼のオムニバスで人気なのは大抵 “メイク・マイン・ミュージック(1946)”や”メロディ・タイム(1948)”だが、制作者らのアプローチはあらゆるシーンに向けられ、『ファンタジア』のどれにも劣らないほど革新的だった。”メイク・マイン・ミュージック”の中のベニー・グッドマン・カルテッドによる”アフター・ユーヴ・ゴーン”の陽気な演奏には、擬人化されたクラリネット、ダブルベース、ピアノ、ドラムキットがじゃれ合うようなアニメーションが付けられている。”メロディ・タイム”の”クマンバチ・ブギ”に至っては、さらに抽象的で独創性に溢れている。一匹のハチが超現実的な音の景色の中でピアノのハンマーに追い回され、リムスキー=コルサコフの”熊蜂の飛行”のジャズ風のメロディーが始まる。

  

クマンバチ・ブキ(1948年)

   

非現実的な感性は、『ダンボ』(1941)のピンクのゾウ達の目を見張るようなパレードシーンでも分かるように、ディズニーの特色の中でも一番の魅力となっている。

  

私は色々な所で若者にこのシーケンスを見せ、彼らが口をあんぐりさせる様子を楽しんできたが、ピュアなダンボが思いがけず泥酔するところから始まるクレイジーなビジュアルの幻想に、前もって心の準備をさせられるものなどディズニーの基準には存在しない。

   

第二次世界大戦中のアメリカの善隣友好政策により作られた、中南米に敬意を表した『三人の騎士』(1945)では、何でもありの精神が感じられる。長い間ディズニーの主力アニメーターだったワード・キンボールは、ドナルド・ダックやホセ・キャリオカやオンドリのパンチートが主役の作品のタイトル曲を担当し、それらの作品に最も誇りを持っていると話した。寄席演芸のような早いテンポで、羽目を外した、つじつまの合わないギャグやアイデアをキッカケに事が起こる作品だが、これもまた、それまでのディズニーっぽさとは違っていた。

   

Spanish artist Salvador Dali (L) meets Walt Disney (R), on May 17, 1961, in Barcelona, to create the Opera "Scipion in Spain" of Carlotti for the La Fenica theater of Venezia. (Photo credit should read -/AFP/GettyImages)
1945年、短編映画『デスティーノ』でディズニーと制作を共にしたサルバドール・ダリ。映画は2003年まで公開されなかったものの二人の友人関係は長く続いた。(クレジット:AFP/GettyImages)

   

おそらく究極的なディズニー実験だったであろう作品は、半世紀もの間、実を結ぶことはなかった。1940年代中頃、サルバドール・ダリが『デスティーノ』という短い映画を作るためスタジオにやって来て、映画のためにかなりの量のコンセプチュアル(概念的)なアート作品を制作した。ダリはウォルト・ディズニーとの友好関係をそのままに、映画完成前に去ってしまった。約50年後、ウォルト・ディズニーの甥、ロイ・E・ディズニーが、ダリと一緒に制作をしたことのある90代のアーティスト、ジョン・ヘンチの助けを借りてプロジェクトを生き返らせ、驚きの短編を完成させアカデミー賞にノミネートされた。

  

  

1950年、『シンデレラ』の大成功で、ディズニーは観客が真に期待しているものを理解した。それは、イノベーションという熱狂的な躍動の向こうにある「家族向けの楽しさ」だった。

  

彼はアニメーション映画のシリーズに着手し、ディズニーランドとプロモーション用の関連TVシリーズの創作に身を捧げた。創造性として自身の長編アニメーション映画や短編作品の特徴を残してはいたが、以前の大胆な実験時代は終わりを告げた。 

 

『ファンタジア』の失敗は、彼の残りの人生においてディズニーの急所として残った。「ファンタジアはディズニーの他の映画を未熟に見せるにすぎず、映画という表現媒体が今後どう良くなっていくかを示した最初の作品です」と、1940年のスピーチでウォルト・ディズニーは言っている。

 

「私が遥か向こうに見ているものは、言い表すには不鮮明すぎる。でも大きくて輝いているように見える。それがこのビジネスの好きなところです。すぐそこの角を曲がれば、もっと大きくてワクワクするものがあるという確かさ、それから、その他すべての不確かさがたまらないのです。」

  

元記事 BBC Culture(英語)
http://www.bbc.com/culture/story/20151112-when-disney-got-adult-and-trippy