衝撃、マリーナ・アブラモヴィッチ「ギャラリーの壁に掛けられる物なんかではない」インタビュー(2/2)

  

前回の続き

マリーナ・アブラモヴィッチと元共同制作者ウーレイ

  

なぜアートの名の下に自らをそんな苦難にさらすのか?

  

「私はいつだって執着してるの、子供の時ですらそうだった」と、突然真剣な表情を浮かべ、初めて話を止めて考え始めた。

  

  

「一方では厳格な正教宗教で、また一方では共産主義。私はその双方に引っ張られた少女なの。それが私を形成している。それが私をフロイトが好む類の人間にしてるんだわ、間違いない。」

  

彼女はまた笑い出して、紅茶に手を伸ばした。

  

マリーナ・アブラモヴィッチ、バルカンバロックI.

    

アブラモヴィッチは、1946年11月30日に元ユーゴスラビアのベオグラードで生まれた。

  

「出身を聞かれても絶対にセルビアとは言わない。いつも、もう存在しない国から来たって言うの。」

  

1997年、アブラモヴィッチはヴェニス・ビエンナーレでバルカンバロック(上の写真)を披露する。1,500本もの牛の骨を1日6時間、計4日間にわたり擦り洗いし、泣きながら歌を歌い祖国の話をした。

彼女の母親ダニカ・ロスィはとても裕福で権力のある宗教的な一族の生まれで、父親ヴォジン・アブラモヴィッチは小作農で位の低い家柄だった。二人ともモンテネグロで生まれ第二次世界大戦中は共産党員のために戦った。その勇敢さから国民的英雄となり、チトー大統領のユーゴスラビア政府において重要な地位に就いた。

 

   

「私たちは赤い有産階級だった。」と、アブラモヴィッチはインタビューで答えたことがある。

 

  

この家族の原動力は何か爆発的なものにも見えた。彼女の両親はよく口論をし、厳格な母親はしばしばアブラモヴィッチを打っては人に見栄を張っていたようだ。彼女は6年間、共産主義を嫌っていた信仰深い祖母と共に暮らした。

  

「祖父の兄弟は正教会の総主教で聖人として崇められていた。だから私の幼少時代は全て、宗教だろうと共産主義だろうと、生贄として捧げられたわ。それが私に深く刻み込まれたもの。私がこんなにも尋常じゃない意志力を持っているのもそのせいよ。私の体は崩壊し始めているけど、最後までやるつもり。どうでもいいわ、何が何でもやるのよ。」

子供の頃、アブラモヴィッチはペインティングに逃避した。( 中略 )そしてある日、「12機の超音波軍用機が、シューと頭上を飛んで青空に美しい線を残していったの。」これがアーティストとしての彼女の公現祭(ひらめき)であったと言う。彼女は近くの基地に行き、「煙で空をペイントするしたいので飛行機に乗っていいか」と尋ねた。担任将校は彼女がノイローゼであるとみて、父親を呼び家に連れて帰らせた。

  

  

「その日から2度と絵を描かなかった。その代わりに、身の回りのものに目をこらしてそれをアートに使ったの。自分自身がアートになると気づくまでにそう時間はかからなかった。」

  

  

始めのうちは音と衝突で実験をしていたと言う。

  

橋が崩れるのをテープで録音して、ベオグラードの大きな橋を渡る人たちに向けて突然大きな音でそれを流したかったの。地方議会に阻まれたけど。」

  

彼女は、今でも信じられないといった様子で頭を横に振りながらそう言った。

  

  

「彼らの想像力は小さすぎる、私の想像力は大きいの。いつだって、全てのものを奮い立たせたいと思ってる。」

  

  

そして彼女は自らの方法でそれを成し遂げてみせた。

ベオグラードにある自身のアパートに大型スピーカを並べ、橋が崩壊する音を録音したテープを建物内で大音量で流した。彼女は今でもその結果に興奮しているように見えた。

  

「突然みんなが道へ駆け出して行った。そこら中が大混乱で、爆弾でも落とされたんじゃないかって思ってるのよ。私にとっては、」と紅茶をちびちび飲みながら、「これはすごいことだったわ。アートの力に気づいたの、それはギャラリーの壁に掛けられているものなんかではないわ。」

  

(中略)

  

初めてパフォーマンスベースの作品を披露した時、彼女にはパフォーマンスアートやボディーアートの知識など全くなかったと言う。

  

「あとになってヨーゼフ・ボイスのことを知ったし、他の人達はもっとあと。私は信じられないほど純真無垢だった。というか、23歳でナイフで血が出るようなパフォーマンスをやり始めてからも、毎晩10時半には家に帰らなくちゃ母親が警察に“娘がいなくった”なんて電話する始末だった。」

  

そんな二重生活が29歳まで続いた。

「今だって“いい子”だった時の名残がある。例えば、私はパフォーマンスしていない時はとても静かで普通なの。お酒もタバコもしないし、ドラッグをしたことも無い。きっと私は、あなたが出会った人の中で一番退屈な人かもしれないわね。」

  

  

初期の頃から、痛み、苦しみ、忍耐はアブラモヴィッチのアートの中心だった。70年代初頭、“Lip of Thomas”という作品を披露した。1974年、“Rhythm 5”と題されたベオグラードの学生文化センターでのパフォーマンスでは、燃え盛る星により彼女は意識を失った。

   

  

「私の髪は焼け消えた。祖母が私を見て朝食トレーを床に落として、悪魔を見てしまった猫みたいな金切り声をあげてたわ。」

  

お迎えが来たんじゃないかと思わなかった?

  

「いいえ、私は怒ってたの。まだパフォーマンスが終わってないのにって。」

  

  

マリーナ・アブラモヴィッチとウーレイ『Rest Energy』(1980年)

  

70年代初頭にナポリで行ったもう一つの伝説的で、恐らく更に危険だったパフォーマンス『Rythim O』について尋ねた。このフォーマンスで彼女は、自ら選んだ72個の道具に囲まれ机の上で6時間うつ伏せになった。

  

用意された道具には、マッチ、口紅、ノコギリ、釘、弾が1発入った銃まであった。訪れた人たちは、彼女の体に何でも“願望”どおりのことをすることが許されたが、その多くは悪意のあるものだった。

  

印をつけたり、探ったり、引っ掻いたり、目隠しをしたり、冷たい水に突っ込んだり、彼女の肌にスローガンをピン留めする者もいた。

 

  

「あの時の切り傷がまだある」と彼女が静かに言った。

  

「ちょっとおかしくなってたのね。あの時実感したわ、パブリックはあなたを殺すことだってできると。もし彼らに完全な自由を与えたら、あなたを殺してしまうほど狂暴になるでしょう。」

  

最悪だった出来事は?

  

「ある男性が私のこめかみに銃を強く押し付けた。彼の意思を感じたわ。女の人が男性陣に指示するのが聞こえた。でも最悪だったのは、いつもそこにいて息をしているだけの男性。それが私にとっては一番恐ろしい事だった。パフォーマンスの後、頭に白髪の筋ができた。それから長いこと、恐怖感を拭い去る事ができなかったわ。このパフォーマンスのおかげで境界線の引き所を知ったから、もうそんなリスクを負わなくて済んだけど。」  

  

  

最近、アブラモヴィッチは別の論争を呼んだ。それは、”パフォーマンスアート”という未だ小さな世界で他のパフォーマンスアーティストの作品を再演するにあたっての論争だ。

ヨーゼフ・ボイス、クライン、ブルース・ナウマン、ヴィト・アコンチなどの作品を引き延ばして比較的長めのパフォーマンスに仕上げたのだが、彼らのパワーを変換するには呆れるほど長いものもあった。

  

  

元恋人でアーティストのウーレイ(右)

  

これに対し、共にオーストラリアでアボリジニーと1年間暮らしたアブラモヴィッチの元恋人でアーティストのウーレイをはじめ、純正主義者からは非難が浴びせられた。ウーレイは最近、ザ・ニューヨーカーにこう話している。

  

「こんなパフォーマンスのリバイバルを俺は信じない。彼らにはこのパフォーマンスの真の響きが欠落している。」

  

 

アブラモヴィッチは断固とした態度でこう話す。

  

「パフォーマンスアートはライブであり、生き残らなければならない。壁にかけられる物ではないわ。もしパフォーマンスをせず再創造しなかったら、アートや劇やダンス界のクソ連中が、クレジットも無しで(上演して)、今以上にぼったくるだけよ。私はパフォーマンスアートの虐待にウンザリしてるの。ポップビデオの連中までもが盗んでいく。新たに若者を加えたい、そうすれば彼らがボイスやアコンチの美しい作品を体験できるでしょ。最善の方法は、パフォーマンスをすることで先人の作品を生かすことよ。」

  

彼女はサンフランシスコにマリーナ・アブラモヴィッチ・インスティチュートを創立した。そして現在、マンハッタン中心部にthe Marina Abramović Foundation for Preservation of Performance Art(パフォーマンスアート保存のためのマリーナ・アブラモヴィッチ財団)を開こうと資金を集めている。パフォーマンス自体やそれらの目録化、形式の伝播を目的としており、その過程において彼女の名もまた不朽となるだろう。自身の憧れマリア・カラスのように、彼女は自分の卓越性を敏感に意識しているようだ。

  

リッソンギャラリーで開催される回顧展では、アブラモヴィッチのRhythmシリーズの動画を見ることができ、他者にある種の強烈さを与える彼女の40年間にわたる作品の軌跡をたどる事ができる。それは全ての意味で、忍耐、行動、コンスタントな再発明の常識を超えた旅なのだ。

老いに蝕まれる今、彼女は時間そのものを自らの本題としたアーティストになった。

  

「私は今でも自分の身体を機械として見ていて、マインドは行動をコントロールするために使うのでも、今はパフォーマンスについてもっと仏教的なものがある。63歳の今でも7時間続けてパフォーマンスができるけど、そのエネルギーと作品は前より余計なものが取り除かれているわ。以前はできなかったことよ、でも今の私は時間とエネルギーについての知識がある。私にとって、真に変換するためには作品が長い時間持続することが重要なの。パフォーマンスアートは変換無しにはあり得ないわ。」

 

彼女は身をもってそう知っているのだろう。

 

同インタビューPart 1↓

 

元記事 The Guardian(英語)
http://www.theguardian.com/artanddesign/2010/oct/03/interview-marina-abramovic-performance-artist