Sade (シャーデー)|何を言わずともカルチャーに浸透する存在 (1/2)

“クールさ”が際立つSadeのクワイエットストーム

鏡越しのSade(1983) Credit: Graham Smith, via PYMCA/UIG — Getty Images

2017年10月25日
Byジェイコブ・バーンスタイン

最近、ブルックリンのとあるタトゥーショップが一人の男性客からYelp(レビューサイト)で酷評を受けた。怒りの理由はタトゥーではなく、店内に流れていた音楽だった。

「なんでSadeなんだよ」とレビューがあった。この男性客からすればSadeは「整形外科の待合室」にふさわしい音楽で、イケてるタトゥーショップには似合わないのだそうだ。

この男性の言い分も分らなくはないだろう。

レコードショップが激減する前、Sadeは大抵イージーリスニングのコーナーに置かれていた。同バンドは、1980年代のアダルト・コンテンポラリーのラジオ放送の出現とともに突発的に成功し、大ヒット曲の“Smooth Operator”や“The Sweetest Taboo”は、のちにマイケル・ボルトンやケニー・Gの曲と並んで収録された。

Sadeは当時から、世に溢れるくだらない安物を引き離す魅力を放っていた。

アーティストDirt Cobainによるウェスト・ハリウッドにあるSadeの壁画(2014頃) Credit: Dirt Cobain

“Sade”は、ボーカルでトレンチコート好きなナイジェリア出身のヘレン・アデュ個人を指して広く知られている。ゴールドのフープイヤリングを身に着けた姿が印象的で、ジュエリー業界の重役も敵わぬほどの影響力を持つ。ポルカドット柄を着ることはそう多くないが、彼女が着たことでアッパー・ウエスト・サイドの古臭いファッションというイメージがすっかり払拭された。

時代が変わり、ハウスDJたちがSadeのバラードをリミックスするとクラブで名曲となり、ヒップホップでも数多くのアーティストが彼女の歌をサンプリングした。

酷評を受けたタトゥーショップ、イーストリバー・タトゥーはこの男性客のレビューをスクリーンショットし、コメントをつけてインスタグラムで反撃した。「タトゥーショップはこうあるべきという期待を打ち砕くことができて鼻が高い、しかも毎日だ。」これを見た大勢のSadeファンがショップに押し寄せた。

「(この男性客は)世間に関する理解力が…足りないな(笑)」と書き込む人も。

Sadeは常に物静かでありながら世界的な名声を保っている有名人の一人だ。多くを語らずともカルチャーへ影響力を持つ人物として、彼女の存在は大きくなるばかりである。

タトゥーも例外ではない。イーストリバー・タトゥーでは、昨年あたりから20人以上の客がSadeの顔のタトゥーを入れた。ショップマネージャーいわく、マドンナやジャネット・ジャクソンよりSadeのデザインのリクエストが20件多かったそうだ。

最も有名なSadeのタトゥーと言えばドレイクだ。今年(2017年)3月、ドレイクはインスタグラムにて、ニナ・シモンのように髪をターバンで覆ったSadeのタトゥーを披露した。

2017年2月には、ストリートファッションブランドSupremeがSadeをプリントした限定Tシャツを発売。3月には、テレビドラマ『ビッグ・リトル・ライズ』でリース・ウィザースプーン演じる性格タイプAのキャラクターが、夕食会で流れていたSadeをAdele(アデル)と間違え、ポップカルチャーへの疎さを露呈する場面が描かれている。

Sadeの1992年と2001年のツアーTシャツはあまりに需要が高く、LA拠点のヴィンテージショップChico’s Closetは供給が追いつかなくなったためにeBayの大部分を廃止し、インスタグラムへ移行した。Sadeのハッシュタグをつけるだけという、その場しのぎの販売にならざるを得なかった。

現在のSade熱の高まりの発端とも言えるのが、最高級Tシャツディーラーのパトリック・マタモロス(41歳)だ。レアTシャツを見つけては完璧なダメージ加工を施し、セレブたちに密に売りさばいている。顧客にはリアーナ、ディプロ、マーク・ロンソンなどがいる。

Supremeが発売したSade Tシャツ

同氏は2年前、Sadeの1993年のLove DeluxeのツアーTシャツをカニエ・ウエストに売却。「それまでSadeのTシャツを有名人に売っていたけど、カニエが意味不明なTシャツを着ていて状況が変わった」と、ある日の午後、ロウアー・イースト・サイドにある自身のアパートにて話してくれたマタモロス氏。その日はRun-DMCのTシャツに、600ドルほどで売るというSadeの帽子をかぶっていた。

フィル・スペクターのヴィンテージTシャツを手に取り、片袖に空いている穴に足の親指を突っ込んだ。

「俺はよく、“SadeのTシャツを着ていても誰も感動しないだろう”って話してた。周りをアッと言わせたいならアイアン・メイデンのTシャツにすればいい。同じ部屋にいる人間のうち、SadeのTシャツにグッとくるのはせいぜい2人。でもその2人は話が分かるやつらだ。」

ビバリーヒルズにて、ダメージ加工が施されたSadeのLove DeluxeツアーTシャツを着るカニエ・ウエスト(2016) Credit: Jul-Rol/X17online.com

それも過去の話で、今では誰もがSadeのTシャツを欲しがる。同氏でもゲットするのは珍しく、1枚最低300ドルは払うと言う。この価格は現在生きている女性シンガーの中では最高値だ。

Sadeへの大衆の強い興味は大方、彼女についての情報の少なさにある。そもそも“Sade”の発音が分からなかった人も多いだろう。(多くのアメリカ人はShar-dayと発音すると思っているが、実際はSha-dayである。)近頃は、本人の才能よりも有名人との繋がりをインスタグラムやツイッターで活用する能力のほうが重要視されるが、Sadeの自己宣伝に対する興味のなさは逆転効果を発揮している。

彼女自身が昔から自分について語ることに興味を持たないため、世間のほうが彼女について話したくなってしまうのだ。

Sadeはロンドン芸術大学の一つ、セントラル・セント・マーチンズ出身である。同カレッジは当時も今も世界最高峰のファッションの名門校だ。アルバム“Love Deluxe”や“Lover’s Rock”のジャケット撮影を担当したアルバート・ワトソン氏いわく、Sadeはロンドンのカムデン・ストリートマーケットで服を売って臨時収入を得ていた。

最初は地元バンドのコーラスをしていたが、「リードボーカルがバンドをやめた」ので仕方なくボーカルになったと話すSade。

Sade models at a Spandau Ballet fashion shoot in New York City in 1981.CreditEbet Roberts/Redferns

そしてその才能を発揮した。息がもれるようなハスキーな歌声に惹かれ、Pride(当時のバンド)メンバーのスチュアート・マシューマンとポール・デンマンはSadeに歌を頼むようになった。

1982年か83年、マシューマンとデンマンはプライドを脱退し、Sadeをメインにしたバンドを結成。

そしてエピック・レコードと契約した。同レーベル幹部はすぐに、Sadeが歴史的に前例のないアーティストだと察知した。

「Sadeは私が完ぺきに惚れ込んだ数少ないアーティストの一人。出てきたときから、彼女は今の彼女そのままだった」と、エピック・レコードの元副代表で広報長のスーザン・ブロンド氏は言う。同氏は現在、エアロスミス、ウィル・アイ・アム、モリッシーなどを顧客に持つエージェンシーを率いている。

「彼女はすごく若かったけど、とても洗練されていた」と語るブロンド氏。「誰のスタイルも真似しなかった。彼女ほど美しくスマートなルックスの人はいなかった。デザイナーの服を着ていたとしても、それを見て“あ、シャネルの服だ”とは思わないでしょう。彼女はブランドを超越していた。それに、彼女の曲はすぐに名曲入りしたみたいですね。」

ある意味では、あのスフィンクスのような眼差しや鋭いファッションセンス、アフロカリビアンなリズムはグレイス・ジョーンズの恩恵を受けていたが、哀愁漂う歌詞やアンニュイな歌い方で“ロマンス”を性別を超えた次元まで押し上げたSadeが形勢逆転したとも言える。

ヒット曲“Smooth Operator”はヒモ男の歌だ。この歌で彼女は、“危ない恋の成り行きに感情を委ねてしまう”とどうなるかを嘆いている

曲中のサックスが哀しみを漂わせる。しかしSadeはグレイス・ジョーンズとは違い、男性に“(あなたのために空けておいた)スペースにうまく収めて”と頼むことはしなかった。

1986年、グラミー賞最優秀新人賞を受賞する少し前、Sadeはトム・ハンクスとともにテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演した。当時のことをトム・ハンクス氏はEメールにてこう語る。「サタデー・ナイト・ライブの司会はあの時が初回だった。この番組は誰にとっても大きな仕事で、歴史的な人たちに囲まれて心が浮かれた一週間だった。私はテレビドラマ『サーティー・ロック』に出たことはなく、サーティー・ロック(ロックフェラー・センターにある超高層ビル)の17階やスタジオ8-Hにはあまり縁がなかった。サタデー・ナイト・ライブでは、“みなさんお待たせしました、Sadeです!”の掛け声で験担ぎしようと思った。と言っても、カンペを読むだけですけど。」

Sadeを「つかみどころのない、ミステリアスな人」と言ってしまうと、つれない、よそよそしい感じに聞こえてしまうかもしれないがそうではない。どちらかというと彼女は、自分のアートや存在についての指揮を自然にとれる人なのだ。彼女と私の共通点は少ないが、楽屋で話ができたこともあり、私は少しばかり彼女のようにクールで落ち着いた雰囲気を漂わせたいと思った。SadeこそSmooth Operator(やり手)ではないだろうか?

最初の4枚のアルバムの米国向けプロモーションに携わったエピック・レコード元上級副代表、ダン・ベック氏は「彼女の行動すべてに品があった」と話す。

ライブの様子(1985年)Credit:Dave Hogan/Hulton Archive, via Getty Images

ベック氏いわく、Sadeはレコードのリリース宣伝キャンペーンをさほど楽しみにしていなかったが、それは彼女が気まぐれだからでも歌姫気取りだからでもなかった。

作品を詳細に解説することに疑いの目を向けていたのだ。Sadeは、ナルシシズムは芸術的な探求の前提条件ではなく、敵であるという方針に従っていたようだ。

「彼女にとっては宣伝が苦痛だった。結局、私がロンドンに会いに行って取引をまとめた。それぞれのアルバムの宣伝用に3週間くれると約束してくれたら、NH1(テレビ番組)やらラジオやら写真撮影やら、レーベルの対応係と話して作業を3週間に収めるようにすると伝えた。“すごく嫌だと思うけどすべて私たちがやるから、君はやり終えてくれたら終わりだ”と話したら、彼女は笑ったよ。その次の2枚のアルバムはそうやって進めた。」

(Sadeとバンドメンバーは、ティナ・ターナーの後半のキャリアを導き長きに渡り「謎の存在は不朽」として知られたロジャー・デイビーズを雇った。)

年月が過ぎ、アルバムリリースの間隔は次第に延びていった。Sadeは普通の人間関係を欲し、伝えたいことができたときにだけレコーディングすることを望んだ。

Part 2 へ続く↓

元記事 The New York Times(英語)
https://www.nytimes.com/2017/10/25/style/sade-sade-sade.html